悪ガキだった少年 一生車いすと宣告された夫…アスリートたちが恩人とのエピソードを告白

  • 『ザ・ノンフィクション』も密着するほどの悪ガキだった少年が感謝したい人は?
  • 「自分で自分を褒めたい」あの名言の裏に隠された恩師との秘話
  • 死を考えるほど追い詰められた…末續選手が北京五輪後に姿を消したワケ

アスリートたちが過酷な練習にも、どん底に落ちた時も這い上がって、また頂上を目指せるのは、近くで支えてくれているたくさんの人がいるからだ。

3月24日放送の「ジャンクSPORTS」(フジテレビ系)では、「あの人に感謝SP」と題し、有森裕子さん、岡本圭司さん、狩野舞子さん、末續慎吾選手、武居由樹選手、細田采花選手、丸山桂里奈さん、村上佳菜子さんらが登場。アスリート人生で“あの人がいなければ今の自分はいない!”そんな恩人とのエピソードを披露した。

格闘技はあまり好きじゃなかった…

K-1 WORLD GPスーパー・バンタム級王者の武居由樹選手は今、乗りに乗っている若き格闘家。
元K-1 WORLD MAX王者の魔裟斗さんも「強いです。試合で顔を腫らせたところを見たことがない。昔、アーネスト・ホーストという選手がいて“Mr.パーフェクト”と言われていましたが、今の“Mr.パーフェクト”」と絶賛するほどだ。

試合が終わった後のインタビューで、客席へ向かってお辞儀をする礼儀正しさや、かわいらしい姿も魅力の一つだ。

そんな武居選手が感謝したい人は、“母親”と格闘技を指導してくれている“恩師”。

昔の武居選手は、母親の財布から合計150万円ものお金を盗むほど悪ガキで、ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』が密着するほどだった。

シングルマザーだったため、子どもに辛い思いをさせたくないと昼も夜も働いていた母親は、当時の番組で「甘やかしすぎた。人生の節目、節目は泥棒。この子は殺す、私も死ぬ。親子心中すると決めて…」と語るほど、武居選手は母親を精神的に追い詰めてしまっていた。

当時13歳の武居選手は「寂しかった」と口にし、「泥棒とかすれば気づいてくれるかな」と、寂しさのあまり、母親の財布からお金を抜いていたと明かした。

そんな時、武居選手は母親に連れられ、地元で格闘技の指導をしていた古川誠一会長のもとに行く。当時、“悪ガキ”たちを集めて自分のジムで指導していた古川会長。その会長との出会い、格闘技との出会いが武居選手の人生を変えた。

武居選手はその頃について「殴り合うのもあんまり好きじゃなくて、マンガを読んだり、ゲームやったりする方が好きだった。格闘技はあんまり好きじゃなかった」という。しかし古川会長はそんなことはお構いなしに、練習中に気を抜いたり、いい加減な生活態度に対して、厳しく叱責した。

なぜ、“悪ガキ”と言われる子どもたちを指導していたのか。その理由を古川会長は「自分もヤンチャでした。大人になってもケンカばかりしてて。自分に熱くなってくれる大人がいなかったので、(そういう子どもたちのために)道を作ってあげたい」と話した。

練習が終わった武居選手が帰宅するのは、今も会長の自宅だ。会長は練習だけでなく、武居選手を含めた少年たちを数人引き取り、無償で生活のサポートをしている。

そんな少年たちとの生活の中で「一緒にいること」を大切にしている古川会長と過ごすことで、武居選手も「会長の家に住むようになって、年上の選手、年下の子、会長、会長の奥さん…本当の家族みたいな感じで温かいな」と心が開き、気持ちに変化が訪れた。

嫌々始めた格闘技も、大会で優勝するようになると楽しさを見つけ、武居選手は母親にも会長にもお金を返したいと思うようになった。その思いを胸に、古川会長の過酷な練習に耐え抜いて、2014年に18歳でプロに。次々と勝ち星をあげ、2017年に20歳でK-1ワールドグランプリのチャンピオンになった。

武居選手は「チャンピオンになってベルトを見せることで、会長にもお母さんにも恩返しができたかな」と語った。

武居選手の過去を振り返るVTRを見たSexy Zoneの中島健人さんは「一人一人才能があって、それを見つけてくれる人に出会えるか、出会えないかで人生が変わるんだな」と人との出会いの大切さについて話した。

また、リアルタイムで武居選手を密着した『ザ・ノンフィクション』を見ていたという土田晃之さんは「武居くんのほかにあと2人会長の家にいて。会長も自分の奥さんとの間に2人の子どもがいて、プラス3人を預かって面倒を見ているんです。高校とかも会長の家から通っていて、(武居くんは)ボクシング部で部長をやったり…」と武居選手の成長に感動していた。

「自分を褒めたい」名言の裏に隠された恩師の言葉

1992年、バルセロナオリンピックの女子マラソンで日本女子陸上競技64年ぶりの銀メダル。続く、1996年、アトランタオリンピックでは、日本女子陸上で初めて2大会連続のメダルを獲得した有森裕子さん。

日本中の心に残っている名言「初めて自分で自分を褒めたい」を覚えている人も多いだろうが、あの名言が生まれた裏には、有森さんがずっと心にしまってきたある恩師の言葉がある。

小学生の頃から走ることには人一倍の自信があった有森さん。公立中学校を卒業後、地元・岡山のスポーツ名門校・就実高校に一般受験で入学。陸上部に入りたいと、顧問の狩屋彰先生を訪ねるも「うちは素人はいらない」と門前払いを食らってしまう。

中学時代の3年間をバスケ部で過ごした有森さんは、陸上経験がゼロだった。当時、体育教師で現在は就実高校の校長・竹内美保さんは「(陸上部は)全国でトップクラスの推薦枠の部員が多かった。当時、狩屋先生は日本一を目指していたので、陸上経験のない生徒が入部すると苦労ばかりでかわいそうだから入部を拒否したと思うんです」と話す。

しかし、諦めきれなかった有森さんは、狩屋先生の行動パターンを調べ上げ、先生の視界にチラチラと入り込む作戦に出た。陸上部の練習中はフェンス越しに狩屋先生の視界に入り込んだという。わざと目障りな距離に立ち、1日4回、1カ月半の間、先生の視界に入ることを繰り返した。

当時の有森さんについて母親は「『目標のない生き方は嫌』と言っていました。どうしても陸上部に入りたいと。勉強の方に力を入れてくれればよかったと思う程のしつこさがありました」と振り返る。

有森さんのしつこさのおかげで狩屋先生は根負けし、晴れて陸上部の一員に。中距離ランナーとして誰よりも走りこんだが、高校3年間で公式戦の出場はゼロ。ずっと補欠だった。

そんな有森さんに狩屋先生は「正直、お前には走る素質はない。だけど、諦めないのはお前の最高の武器だから、これから先、闘う相手が全員諦めるまでお前は諦めるな。そしたら必ずいつか、前に出られる。今は辛抱だから、辛抱できるか?」と問いかけた。

この言葉が有森さんの人生を変えることになった。高校3年生の時、狩屋先生は有森さんを日本体育大学に推薦。3年間補欠の娘を推薦する理由について両親が真意を問うと「サボらず、妬まず、ひるまず。休みだと言っても3年間走り続けました。陸上は一生懸命練習したからといって成果が出るわけでもない。陸上は心なんです。精神力が大事なんです。僕はただ、母校のジャージを4年間、裕子さんに着せてやりたいんです」と話したという。

大学卒業後は、小出義雄監督に直談判しリクルートへ入社。ここでも長距離ランナーとして芽が出なかったが、耐えて、耐えて走り続けた。そして22歳の時に、小出監督からフルマラソンを持ち掛けられたとたんに才能が開花。

そして、陸上を始めて10年、辛抱し続けてようやくつかんだ夢の舞台、オリンピックでのメダル。あの時、有森さんが「自分で自分を褒めてあげたい」と言った言葉は、辛抱し続けた自分を報いた言葉だった。

追い詰められた末續選手を救った恩師の言葉

2008年、北京オリンピックの400メートルリレー決勝で、第2走者として激走し、日本陸上短距離界初となるメダルを獲得した末續慎吾選手。

歴史的快挙の後、末續選手は自らの死を考えるほど、追い詰められていた。そんなボロボロの末續選手を救ったのは高校時代の恩師・禿(かむろ)雄進先生。何が末續選手をそこまで追い詰めたのか。

2003年にパリで行われた世界陸上。当時23歳の末續選手の名前が日本中で知られるきっかけとなった大会だ。

200メートルで3位となり、オリンピック・世界選手権を通じて、世界大会短距離種目で日本人初のメダルを獲得。それ以降、世界大会の短距離個人種目において、誰もメダルは獲れていない。
 
若きスター誕生に日本中が湧く一方で、記録が出なかった大会では「観客の人は当然、『あぁ…』って言いますよね、期待しているわけですから。それ以上に、自分がそう思っているわけです」と、そのメダルが末續選手を苦しめた。

原因不明の手の震えが起き、眠れない夜も続いた。プレッシャーに苦しみながらも走り続けた末續選手は、2008年の北京オリンピックで銅メダルを獲得する。

「もちろん嬉しいです。ただ、それよりも日本を代表してオリンピックに出てメダルを獲って帰ってくる、という重責を果たすことができた…それだけでした」と当時を振り返った末續選手。

だが、どうにか保っていた心の均衡が銅メダル獲得の祝勝会でついに崩れた。オリンピック後も震えが止まらなくなってしまった末續選手は、遠征先から禿先生に助けを求めた。

禿先生は「電話口で場をわきまえず泣くのは普通じゃないなと。『手が震えて止まりません』と言うから」と泣きながら電話を掛けてきた末續選手の異常を察して「熊本へ帰ってこい」と言ったという。

その後、末續選手は無期限休養宣言をし、表舞台から姿を消す。

熊本に戻り、陸上競技から離れた生活を送る末續選手を、禿先生は静かに見守ったという。少しずつ落ち着きを取り戻していった末續選手に、数年後、禿先生は「もうそろそろ、自分の好きなように走ったらどうだ?」と声を掛けたという。

その時のことを末續選手は「今まで肩に乗っていた何かが下りたような感じがした」と振り返る。記録やメダルのために走るのではなく、自分のために走れと背中を押してくれた先生。

「何で俺は走り出したのか?」

そこから考え直し「楽しかったから」という答えを見つけた末續選手は「走らないと楽しさを取り戻すことができない」と、休養宣言から9年の時を経て、表舞台へと帰ってきた。

どん底から這い上がるきっかけをくれた恩師の言葉を胸に今もトレーニングを続けている。

そんな末續選手はもう一人感謝したい人がいるとスタジオで告白。「カール・ルイスの師匠のトム・テレツ。80歳を超えても指導をされて、歳を取ってもこんなに陸上が好きな人がいるんだから、自分が悩んでいることも小さなことに思えるんじゃないかな」と前を向くきっかけをくれた人だという。

大ケガからの復活を支えてくれた妻に感謝

20歳の頃スノーボードを始め、たった5年で世界最高峰の大会で日本人最高の5位に入賞した岡本圭司選手。

実力だけでなく人望も厚く、親交のある俳優・野村周平さんも「小学生の頃からずっと一緒に滑っていて。教えるのも上手かったり、良いお兄ちゃん」と明かした。

スノーボードの魅力を伝えるために映像制作を企画、制作し、全力を注いだが、そんな岡本選手に悲劇が襲う。撮影中の事故で崖から転落し、第3腰椎を破裂骨折。下半身不随となった。

岡本選手は「腰をぶつけた瞬間に下半身の感覚がなくなっていて、頭が真っ白になった」と話す。

手術は無事に成功したが、医師からは「歩けるようになるのは難しい。一生車いすになることを覚悟してください」と残酷な宣告を受ける。

岡本選手と親交のある、ソチ五輪スロープスタイルで8位に入賞した角野友基選手は、ケガの状態を聞き「わけが分からなかった」と困惑したという。
 
痛み止めの注射を打って眠り、滑る夢を見ては涙を流す日々に「とにかく死にたかったです。看護師さんにも『殺してください』と言ったりしたんです」と精神的にすり減っていった。

そんな岡本選手を支えたのは妻・純子さん。「代わってあげられる方がどれだけ楽だろうって。励ますよりも私の足が動かなくなる方が全然いいって思うくらい絶望しました。教えてもらったことは全部やろうと、ずっとマッサージしていました」と振り返る。

しかし、右脚は指先がわずかに動くだけだった。

そんな時、岡本選手は世界大会を控えた角野選手に「『AIR+STYLE』に出て優勝するから、優勝したら圭司くんの足も動くから」と告げられたという。

『AIR+STYLE』はオリンピックのメダリストらが集う大会で、18歳の角野選手が優勝する可能性は少なかった。角野選手は、ボードに掲げたメッセージ“圭司のために滑る”という思いを胸に、この大会で世界初の技を決めて優勝。

この大会を見ていたという岡本選手は「人生で一番感動した」と話し、この時、それまで動かなかった足が動き始めたという。これをきっかけにもう一度、スノーボードを滑りたいと希望を持ち始める。

寝たきり状態から車いすに乗れるように。ベッドを起こして立ち上がるトレーニングも。やせ細った右脚が少しずつ自分の意志で動かせるようになった。そして、一生車いすと言われていた岡本選手だったが、杖一本で歩けるように。

ケガから1年1か月、仲間たちに見守られ雪上に立った岡本選手は、笑顔で滑り切った。そしてケガから4年、次なる目標について「パラリンピックに出たいと思っています。スノーボードクロスという競技に挑戦します。もう一度スノーボードをうまくなるという気持ちを思い出しました」と意気込んだ。

また、自身を支え続けてくれた妻の純子さんに対しては「奥さんには頭が上がらないです。毎日、笑顔でいてくれて感謝しています。一生、一緒にいたいなと思います」と笑顔を見せた。

そんな岡本選手の奇跡の復活劇にスタジオも涙に包まれる。岡本選手は「今も右脚があまり動かないんですけど、左は元気なので右脚はごまかしたり、装具を付けたりしています。動くと信じてリハビリを続けていますが、滑るのが一番のリハビリになっています」と目を輝かせた。

さらに、「スポーツ!奥の奥・大谷翔平SP」では、日ハム時代に大谷選手をコーチとして指導していた白井一幸さん、“ハマの大魔神”こと佐々木主浩さん、大谷選手と同じ1994年生まれの村上佳菜子さんらが、大谷選手の魅力を奥の奥まで掘り下げた。

『ジャンクSPORTS』毎週日曜日夜7:00~8:00放送