車椅子で見た東日本大震災 日本の安全を守るのは誰なのか

父が原爆投下の地に向かった理由

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  • 今の僕は津波から逃げられない
  • 悪いのは本当に東電なのか
  • 父はなぜ長崎に行ったのか

車椅子で見た津波の恐ろしさ

テレビからは衝撃的な映像が次々に流れてきた。
津波の威力を初めて知った。
原発はこれからどうなるのかもわからず、制御不能な怪物のように見えて不気味だった。

映像を見ているうちに段々怖くなってきた。
もし僕が東北に住んでいたら逃げられただろうか。
少なくとも今の自分が津波から逃げるのは無理だ、ということがわかった時ぞっとした。

津波発生後の岩手県釜石市

今まで「ちゃんと歩けない」ことがなかったので、そういうことを意識したことがなかったのだ。
健常者の論理で常に物を考えていた自分の愚かさを思い知らされた。

2011年3月11日 宮城県気仙沼市の夜 消防車両もがれきに埋もれた 

平成23年(2011年)3月11日の金曜日。
その頃、僕は椎間板ヘルニアによる坐骨神経痛で歩けなくなってしまい、松葉杖と車椅子の生活をしていた。その日もいつものように午前中に松葉杖をついて病院に行き、神経根ブロック注射をして帰宅し、日曜の「新報道2001」のコメントを書いていた。

地震があったのは午後3時前の、もう夕方に近い時間で、グラグラっと長く揺れた。今まで経験したことのない揺れだった。東京の震度は5強だったが、リビングルームのテレビとランプが両方グラグラと落ちそうで、どっちを支えようか悩んだことを覚えている。

2011年3月11日夜 火災が発生した宮城県気仙沼市

揺れが収まって、仕事で外出をしている妻のことが心配で電話したが、なかなかつながらず、ようやくメールで無事が確認できてホッとした。

普通こういう時は会社に一報を入れるのだが、しなかった。当時の僕は短い距離ならかろうじて松葉杖で歩ける程度で、週2回テレビに出るために会社に行く時は、社内でADさんに車椅子を押してもらっていた。行っても邪魔なだけだと思ったのだ。

原発の恐怖で日本はパニックに

上空から撮影された3月16日の福島第一原発3号機と4号機 

今の自分が津波から逃げられない恐怖にはぞっとしたが、怖さで言えば原発の方がはるかに怖かった。
当時国民はパニックに近い状態になっていたと思う。

親友の奥さんが原発の放射能汚染が怖いと言って、小さな子供を二人連れて沖縄に避難したという話を聞いて、パニックが日本を押しつぶすのではないかと心配になった。

1週間が経って、少し落ち着いてきたかと思い、経産省で原子力行政の中核にいた官僚の携帯に電話してみた。彼は疲れ切った声で「ベント(炉内の圧力を下げる)が遅すぎた」と開口一番言った。首相官邸の危機管理センターに発生以来詰めっきりでほとんど寝ていないという。

彼は、「ベントをすれば放射能が空中に出るわけで、世界的な騒ぎになり、今後の原子力行政に壊滅的な影響がある。東電は福島を守りたいあまり後手を踏んでしまった」と、東電に対しかなり怒っていた。

一方で「ベントを民間企業の東電に決めさせて良かったのか。こういう話は政治が決断して命令すべきだ」と、東電をかばい、東電任せにした菅直人政権を暗に批判した。

会見する菅直人首相(当時)

もちろん政権は何もしなかったわけではない。
菅首相は海江田万里経産相を通じて、東電にベントを要請していたが、東電がなかなか応じないとされていた。

「東電が福島を守りたいあまり後手を踏んだ」
という言い分には反論もあるだろう。確かに東電の安全管理は十分ではなかったし、対応に問題はあった。

ただあの過酷な状況で、現場の吉田所長らがまさに命を懸けて働いたというのも事実なのだ。

2011年6月9日 会議で発言する福島第一原発の吉田昌郎所長

日本の安全を守るのは誰なのか

今回の原発事故についていろいろな検証が行われたが、ざっくり言うと「東電が一番悪い」という共通認識に落ち着いたような気がする。

それに比べて政府はさほど悪くないと。政治家や官僚は悪くない、民間企業が悪い、というよくある結末になったのではないか。それが一番「すわり」が良かったのではないか。

ただ民間企業に日本のエネルギーの危機管理を丸投げしていいのだろうか。最後は政治がきちんと判断しなければいけないのではないか。

今後、原発は大丈夫なのだろうかと思い、官僚氏に聞いたところ、「まだ最悪の危機は脱していないが間もなくだと思う。明後日くらいには原発の電源も確保できそうだ」と答えたのでほっとした。

上空からの放水のため被災地に向かう陸上自衛隊の大型輸送ヘリ

しかし彼はここでまた怒り出し、「実は昨日も電源設置の工事をしようとしたんだが、政治家が水をかけろ、と言ってきて、一日中水をかけていたので電源工事ができなかった。水をかけるのは見栄えはいいが、本当に必要なのは電源だ。政治家が細かいことに口を出すな!」とまくしたてた。

民主党政権だけが全然ダメだったわけではない。
東日本大震災の16年前の阪神淡路大震災での自社さ政権の初動の遅さは社会党の村山首相のせいだけではないからだ。

ただ危機を仕切る日本のリーダーであるべき菅首相に対し国民が強い不安を持ったことは間違いない。

東日本大震災による福島原発事故で、日本の原発事情は大きく変わった。現在は日本で稼働する原発はごくわずかになり、新規着工も難しい。政府は原発の輸出も試みたが、安全基準を上げたため費用が高騰し、ほぼ撤退の見通しだ。

福島では事故から8年たった今も放射線量が高く、自宅に帰れない方々が大勢いる。

原爆投下の地に生きた両親

東日本大震災の直後に亡父に聞いたことがある。
彼は旧制山形高校から終戦2年後の1947年に長崎大学の医学部に進んだ。それまで長崎には何の縁もなかった。
「原爆が落ちて2年後の長崎になぜわざわざ行ったの」と聞いた。怖くなかったのだろうか。

「原爆が落ちた当時はもうその辺りには生き物は永久に住めないと言われていた。それが1年後に爆心地にペンペン草が生えている写真を新聞で見てびっくりした。これは大丈夫だと思って長崎に行くことにした」のだそうだ。

「長崎大は感染症の研究が盛んだったし、原爆症にも関心あったから」とも。

原爆投下後の焼け野原(1946年撮影)

今では考えられないくらい雑な考え方に心底驚いた。。
福島でも爆発したがあれは水素爆発だった。
長崎、広島は核爆発なので放射線量も比べ物にならない。

だが長崎への原爆投下時、爆心地のすぐそばに住んでいた私の母は、たまたま山が影になって被ばくせず、その後も長崎で暮らし続け、やがて長崎に来た父と知り合って結婚し私たち3人の子供を産んだ。あの時、父が長崎に行かなければ私も生まれなかったわけだ。

長崎平和祈念像

放射線量と健康被害の関連性は、特に低線量の場合専門家の意見も分かれる。民主党政権が当初設定した放射線量の基準が厳しすぎて、それが国民の不安をあおったという批判の声もある。リスクは最小化すべきだがゼロにするには途方もないエネルギーが必要だ。

もし現代の長崎に再び核兵器が撃ち込まれたら、長崎には今後2度と人が住むことはないだろう。

歴史に「もし」はない。

だが福島でいまだに家に帰れない方々のニュースに接するたびに、自分の不思議な運命のことを思うのだ。

【解説:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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