「それだけはやらせて」闘病中の壮絶ステージ…美空ひばり没後30年。激動の人生を妹と息子が激白

  • 「歌を捨てられなかった」大スター同士、小林旭さんとの結婚と離婚
  • 自分の息子として迎えた和也さんとの"4つの約束"
  • 今の和也さんを支える母・ひばりさんからの最後の手紙

没後30年を迎えた歌謡界の女王・美空ひばりさん。

9月13日に放送した「直撃!シンソウ坂上」では、追悼番組などでは触れられてこなかったひばりさんの人生の裏側にあった、苦悩や葛藤を番組MCの坂上忍が2人のキーマンに直撃。知られざる昭和の大スターの素顔に迫った。

坂上は生前、ひばりさんが暮らしたという邸宅を訪問。迎えてくれたのは、一人息子の加藤和也さん。

ひばりさんが好み、トレードカラーにもしていた紫色で統一されたリビングで、坂上は和也さんから話を聞いた。

スターへの階段を駆け上がるひばりさんの隣に母の存在

今から約80年前の1937年に横浜に生まれたひばりさん。実家は通称・屋根なし市場の鮮魚店「魚増」。

戦争の足跡が聞こえるこの時代に、父の増吉さんと母の喜美枝さん、そして3人の兄弟とともに幼少期を過ごした。

物心ついたときからひばりさんの存在を知っていた坂上の中では歌手のイメージが強いというが、ひばりさんも子役をしていたことに共感する。

1949年、12歳の時に『河童ブギウギ』でレコードデビュー。その後『悲しき口笛』や『リンゴ追分』などもヒットし、国民的歌手としての地位を確立していった。

わずか17歳で紅白歌合戦の出場も果たし、瞬く間にスターへの階段を駆け上がるひばりさんの芸能活動には、ひばりさんの母親であり、プロデューサーでもあった喜美枝さんの存在があった。

ひばりさんにとっての母親の存在を和也さんは「もう半身だったと思います。自分の体の。一心同体という言葉がぴったりくる親子だった。僕が見ていてもそう思いました」と話した。

二人三脚で芸能界を渡り歩いたひばりさん親子。突然現れてあっさりスターになったひばりさんに、いわれのない反感をぶつけられることもあったという。当時の心境を語るひばりさん親子の映像では「右見ても左見ても知らない芸能界に入ったものですから風当たりは強かったですね」と語る母・喜美枝さんの姿があった。

大スター同士の結婚、そして離婚…

そして1962年、ひばりさんが25歳の時に映画俳優・小林旭さんとの婚約を発表。大スター同士の結婚に日本中が湧いた。

「ひばりさんと旭さんが恋愛して結婚ということにビックリしている」という坂上に、和也さんは「僕はすごくわかる気がします」と話す。「うちの母はものすごいイケメン好き、分かりやすいほどイケメン好きなんです。旭さんのことを『ダーリン』と呼んでいたり、旭さんが出掛けるときに靴ひもを結んであげたりしていた」と意外な一面を明かした。

だが、そんな生活は長く続かず、1年7カ月後に2人は離婚を発表。婚姻届すら出していなかったという。

ひばりさんの妹・佐藤勢津子さんは結婚について「お母さんは結婚反対でした。離れたことのない親子ですから、ずーっと一緒にいたから。離れ離れにならなきゃいけないのは、母にとっては辛かったことだと思います。離婚のときは大喜びでした」と明かした。

離婚の原因を和也さんは「母はまず歌を捨てられなかったというのが一つ。1年7カ月を過ごして、主婦をしてあげられないかもという思いもあったと思います。本人はとても責任感の強い人だったので、すごくいろんな葛藤があったと思うんです」と振り返った。

芸の道を捨てることができなかったひばりさんは離婚発表後、その葛藤をはねのけるかのようにヒット曲を連発。

1964年にリリースした『柔』は180万枚の大ヒットで、日本レコード大賞のグランプリを受賞し、1967年には芸能生活20周年にリリースした『真赤な太陽』も140万枚の大ヒットとなった。

甥を養子に迎え本当の息子のように可愛がった

しかし、名実ともに芸能界の頂点へと上り詰めた彼女を奈落の底に突き落とす出来事が襲う。
暴力団との関係が取りざたされたひばりさんに対して、「ひばりショー」に会場を貸すことになっていた地方自治体が「暴力団員の出演する催しには会場を貸せない」と反発。

ショーを中止に追い込まれるという事態が、当時の暴力団追放の流れと相まって全国各地で頻発した。

その影響からか16年連続で出場し、13回のトリを務めた紅白歌合戦にも落選してしまった。

そんな逆境の中で、ひばりさんは和也さんを自分の息子として迎えるという大きな決断をした。和也さんはひばりさんの実の子どもではなく、弟の哲也さんの息子。

家庭の事情で幼少の頃から、ひばりさんの家で育てられたという。

ひばりさんの養子になる前から、和也さんを本当の息子のように可愛がっていた。

和也さんの小学校卒業時の謝恩会ではひばりさんはこんな話をしていた。

「和也君と私はお約束を4つだけ致しました。物を大切にすること、人に迷惑をかけないこと。人に優しくすること、自分を大切にすること。これは和也君の頭の中にじっくりと染み込ませて立派な大人になってもらいたいというママの願いでございます」

本当の親子に近付こうと和也さんとかけがえのない時間を過ごしていた。

だが、悲劇は突然訪れた。

1981年7月29日にひばりさんの母親・喜美枝さんが68歳で亡くなった。2年後には弟の哲也さん、さらにもう一人の弟…と5年間で3人もの家族を失った。

痛みをこらえ…"伝説"となった命がけのコンサート

肉親を失った悲しみを振り切るかのようにステージに立ち続けたひばりさんだが、そのプロ意識がさらに悲劇をもたらしてしまった。

ひばりさんの体は病に侵されていたのだ。

血流の遮断により骨が壊死、足腰に耐えがたい激痛を伴う両足の「大腿骨頭壊死症」という難病。

長期にわたる入院にメディアは”美空ひばり引退説”を報道。治っても以前のようには歌えないと書き立てた。しかし、ひばりさんは「もう一度歌いたいという信念が私の中にはいつも消えないでおりました」と完治はしていなかったが退院した。

復帰1作目『みだれ髪』はこれまで苦手と言われていた高音域の曲にあえて挑戦。さらに、退院から1年後の1988年には、のちに”伝説”と語り継がれる「不死鳥コンサート」を開催した。

その年に完成したばかりの東京ドームで日本人初の単独ステージを行い、5万5千人の観客を熱狂させた。

だが、このコンサートの裏側は壮絶なものだったと和也さんは語る。

「楽屋にベッドです…考えられないですね。こっちを見るとお客さんがワーッと入ってらっしゃるけど、こっちを見るとおふくろが点滴を受けて寝ている。『こんなことさせて本当にいいのかよ』」と思ったという。

コンサートの最後には100メートルの花道を歩くプログラムもあり、和也さんは「止めましょう。この状況だからそれはなしにしましょう」と話したというが、「それだけはやらせてくれ、と言われて。ちゃんと自分のこの顔を一番後ろのスタンド席のお客様にも見ていただきたかったんだろうな」と感じたという。

100メートルの花道を腰を気にしながら歩ききったひばりさん。

最後のスモークの中で、ひばりさんは倒れ込み、待ち受けていた和也さんに抱えられた。

「このまま逝かせてあげたいと正直に思った」

ひばりさんが歌手人生を賭けた伝説のステージは、和也さんにとっても転機となった。

「僕から見ていると夢みたいだった。あんな夢みたいな舞台を身内として見て、ステージを降りてきたリアルなおふくろも同時に見て。目の前で見ていて『これは手伝わなきゃ』と、本当にその時にそういった気持ちになれたんです」と打ち明けた。

当時16歳だった和也さんは、「ひばりプロ」への入社を決意し、「母を支えていく」という生き方を選んだが、そんな中でひばりさんが再び入院してしまう。

そして、本人にも世間にも詳しい容態は明かされないまま、ひばりさんの芸能活動休止が発表された。和也さんはこの時に病名を知っていたが、あえて公表しなかったという。

病名は肺の組織が損傷して呼吸困難に陥る「間質性肺炎」で、歌手にとって絶望的なだけでなく、この先10年の生存率が20%という難病だった。

本人に伝えることができなかったという和也さん。

「正直、後半に入院した時は『もう歌えないんじゃないだろうか』と覚悟をしていたような気が、いま思うとしますね」と振り返る。

勢津子さんは「お姉ちゃんがポロポロと涙を流したんです。『勢津子、私まだ生きていられるのかな?』と。何言っているの、まだ52歳じゃない。これからまだ頑張って生きていかなきゃいけないんだから、と言うと『そうだね、和也一人残して逝けないもんね。頑張るわ』」と弱音を吐いたという。

そして、1989年6月13日に容体が急変し、ひばりさんは重い呼吸困難に陥った。

「医師から『しばらく話ができなくなります』と聞いて何を言うべきなんだろうと散々考えて、やっと出てきた言葉が仏頂面で『大丈夫!』。それが目いっぱいでした。それに対して最後、本人が言っていたのは『うん』と言って泣きもしませんし、表情も変えませんでした。人の顔を目だけ見て『ごめんね』『ごめんね』と」と最後となってしまった会話を和也さんは明かした。

「一番見たくなかったですね、電気ショックでドンって。これで助かるなら『先生止めないでください』ですけど、3回目のチャージの時に気づいたら『もう止めてください』と止めてました」と語った。

当時17歳だった和也さん。「このまま逝かせてあげたいと正直に思った」という。

1989年6月24日午前0時28分、最愛の息子・和也さんに看取られて52年の生涯を閉じたひばりさん。

800人を超える著名人と1万2000人のファンに見送られ、翌月には”歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた”として、女性初の国民栄誉賞を受賞した。


坂上は「ひばりさんを時代が生んだ大スターだとするならば、人生の選択肢はそんなになかったんだろうと…」と問うと、和也さんは「一つもないんでしょうね」と答えた。

一方、和也さんも大スターの息子として人生には選択肢がなかったという。

「いつも2択、3択あるみたいですが、結局のところ、選ぶカードは最初から決まっていました。そういう意味では選択肢はなかった。養子になった時も選択肢はない。何しろ”美空ひばり”を家族が命がけで守って、うちのおふくろが命がけで歌った。その灯火を消さないように…。僕に与えられた使命だと思ってずっときて、この年齢になりました。今世は全部ここに捧げるつもりでいます」と語った。

ひばりさんから息子へ最後の手紙

今、和也さんが心から仕事に取り組めているのは、ひばりさんが最後の最後に残してくれたあるもののおかげだという。

それは、亡くなる1カ月前に息子に残した最後の手紙。

そこには「早く元気になって和也と楽しい人生を送りたいと夢見ています。和也の新しい道を見つめています。頑張って頂だい!ママは今度こそ悩みを引きずって死にたいなんて思わずに、生きることに向かって歩みます」と綴られていた。

これまでずっと和也さんは「僕一人のお母さんなんかに絶対になってもらえる人じゃない」という思いがずっとあり、そこには寂しさがあった。ただ、この手紙を読み、ひばりさんの思いを知ったことで「僕だけのおふくろ」そう思えることができたという。

ひばりさんの生前最後の曲となった『川の流れのように』。

ひばりさんは生前、この曲に対して「人生も真っ直ぐだったり曲がっていたり…川の流れのようなもの。でもね。最後はみんな同じ海に注いでいるのよ」と語っていたという。

この曲は、最愛の息子とともに歩んだひばりさんの人生そのものだったのかもしれない。

 

「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54